Lukas BieriによるPixabayからの画像
新しい時代の変化。インターネットの出現で世界と常時接続できる時代。
スマホがあれば、今までパソコンでしかできなかったこともできる。様々なアプリをダウンロードすることで、自分のスマホ自体のできることが増えていく。久しぶりにアプリをダウンロードした。その時に人間の能力について思いついたことを書いてみる。
物心つく小学校時代に自分の持ち味を知る
小学校入学が昭和50年だった。戦争が終わって30年後の教育体制。今思えば、陰湿な体罰というより、明るく厳しい指導。思い出してクスッとしてしまうのが、何か悪さをして先生にもみあげを引っ張り上げられたり、竹の穂先のムチのようなものでしばかれたりした。1時間目の授業が始まる前の活動として、運動場のトラックを裸足で何周も走って、走った周回をグラフにつけるようなこともしていた。毎日同じ服を着てきている子がクラスの半分以上を占め、給食ではなく、お弁当だった。お弁当を用意できない親が、出前を教室に届けることがあり、大問題になった記憶もある。
そんな中で、育ったので面白い先生や怖い先生がまじりな側も、先生が絶対であり、先生に怒られたら、親は先生に怒られたことで、子供を叱りつける時代だった。
自由に育ったと思った自身の記憶も、自分が勉強できる方だったので、いつも気分よくいられる環境だったのかも。もちろん、走りの早い子は人気があったし、面白く話ができる子の周りには、いつも人が集まっていた。勉強できるか、運動できるか、面白いかのどれかができると自分の居場所ができるという世界だった。自身は勉強できるポジション。学級委員とかして、先生に褒められるのを喜ぶタイプだった。
いい学校いい会社という定番メニュー
和歌山県南部の進学高に進む。自分よりも賢い子が他の学区から集まっている。賢い子って本当に賢いってことがわかり、自分の進む大学のレベルも見えてきた。そんな中で、高校卒業時に家が倒産して、親が離婚という状況になった。親戚などに助けてもらって、働きながら、お金を貯めて、浪人生活をした。東京の大学に行きたかったが、学費や生活費を考えるとやっていけないことがわかり、働きながら大卒資格がとれる夜間大学を選んだ。結局2年間、アルバイトでお金を貯めて、そのお金で入学金などを賄う。大学進学の道から外れることが異常に怖かった。大学を出て、いい会社に入る道が、一般的に幸せなルートという世の中の空気の中で、もがいてまでも大学卒業の資格をとりにいった。今はない、関西大学の夜間学部を4年間で無事卒業して、百貨店に入社することができた。ようやく、なんとか世間体の良い道の上を歩くことができるという安心感があった。いつも世間的に見てどうかという視点で考えていた。知名度のある会社に入社できたことで、やっと自己肯定感が上がり、自分の生き方に安堵した感がある。
環境に左右されるのが人間 AI時代の変化について
最近になって、いい大学からいい会社的、日本の王道の価値観に、今後もそうだろうかという疑問が湧いている。もちろん優秀と呼ばれる学校で学ぶだけではなく、学校での友達などこの道を進むことで得られる人生の豊かさはたくさんある。なので、世の親たちもこぞって、塾通いや良い学校への進学を望み、教育にお金を投入している。
最近、AIの進化や、シンギュラリティなど、人工知能がもたらす世の中の変化の話題が多い。
単純の作業ロボットレベルから、自動運転、会計士や弁護士の領域、音楽や絵画なアートの領域まで今まで不得意だと思われていたことが、莫大なデータの解析によって、アウトプット内容が人間に近づいているようだ。AIにとって代わる仕事は消滅していく中で、人間がAIとどのような関係性で物事が進むのだろうか?
過去の事例に即して最適解を提示するような知識のアウトプットはAIの得意とするところ。子供達が受験勉強と称して、答案用紙にアウトプットするのと重複している。今後はもっと、AIでは対応できない思考力や構想力のような創造性の競争になっていくと思う。でもそれには、教科書も学問体系も、まだまだこれといったものが無い。
いかに新しい魅力を身につけるか
今後の時代の変化とともに、これをやっておけさえば良いというような常識も変化していくだろう。
「これからの時代を生きていくのに求めらる力は何か」という問いには、人間の持つ想像力が大切だと答える。他者への想像力はもちろん、家族や仕事関係でのコミュニケーション能力など、これは今までも身につけている人は魅力的。
それ加えて、自分の中に眠っている新しい価値を掘り起こす活動をしてみてはどうだろう。自分自身が向いていないとか不得意だとレッテルを貼り付けた領域であっても、もう一度光を当ててみる。諦めて領域に再度トライしてみる。その行動で何かしら新しい自分の可能性が気づくかもしれない。自分の能力の領域を広げるために、新しいことに挑戦してみよう。
苦手だった食材も、歳をとって食べてみて、その美味しさに気づくことがある。
自分自身も一つの食材として、世の中に新しい料理を提供するって考えはどうだろう。
そのもち味も変化しているかもしないし、変化させても良い。
もう一度、自分という食材を使って新しい料理にチャレンジしてみませんか?
レパートリーが増えると、1回の人生の彩りも鮮やかに、より豊かになるのでは。
今日の気づきです。ありがとうございます。
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